暗い海の底に

突然逝ってしまった。
誰にも何も言わずに。
一人でさっさと逝ってしまった。

いつも勝手な人だった。
好きなことばかりして、周りを良くヒヤヒヤさせていた。
人の忠告には全く耳を貸さない人だった。
そのくせ困るとすぐに頼ってくるような困った性格の持ち主だった。

それでも友達に恵まれていた。
彼女の周りはいつも大きな笑いが起きていた。
とりわけ彼女の声が大きかった。
話し声、笑い声。
ガハハとうるさいくらいに。

不思議なほど人に好かれる人だった。

私の子どもをすごく可愛がってくれたっけ。
子どもが大好きな人だった。
でも、自身には中々できなくて、心身に負担をかけて不妊治療をしていた。

だから、念願の妊娠だった。
嬉しかった。
産まれたら、私なんかより数倍子煩悩な母親になるんだろう。

彼女はお腹も膨らまない内から言っていた。
「早くお腹が出てほしい。周りに妊婦さんと思われたい。」

お腹が出てきたら出てきたでこう言っていた。
「早く産まれてきてほしい」

出産予定日を過ぎてしまった時には
「妊婦飽きた。早く産みたい。」
そんな呆れたことを言って、陣痛促進剤を使いさっさと産んでしまった。

私はいつも不思議だった。
なぜそんなに急ぐの?
ゆっくりと”妊娠期”という限られた時間を堪能すれば良いのに。
産まれたら自分の時間など無くなることは、私を含め、周りでさんざん見聞きしてたでしょう?

そんな私の問いかけも、彼女はあまり興味が無さそうだった。

子どもが産まれてからも、彼女のそんな性格は変わらなかった。
「早く首が座ってほしい」
「早く歩けるようになってほしい」
「早くひとりでいろいろできるようになってほしい」

離乳食は、待ちきれないとばかりに一般のスタート時期より1か月早く食べさせていた。

早く。
早く。
早く。

生き急いでいる。
そんな風に思えた。

生後100日が過ぎたころ、それは突然訪れた。

「子どもがかわいく思えない。」


虚ろな目で自分の赤ちゃんを見ながら、彼女が言った。

「うっ、うっ」

沈黙の中、加湿器の音と赤ちゃんのかわいい声だけそこにあった。

気づけば、いつも人目を引くほどおしゃれだった彼女が、
お風呂にも入らなくなり、自分の身なりを全く気にしなくなっていた。
顔に表情もなく、いつもぼーとしている。

産後ずっと眠れていない、そう言っていた。

何度か彼女を家に泊まらせ、子どもは私が見るから、と彼女一人で寝かせたりした。
それでも眠れないという。
頭が割れるように痛いのだという。

産後うつだった。

すぐに精神科に通うことが決まった。

病院で薬を出してもらうようになり数ヶ月経ち、気づけば徐々に鬱の症状が落ち着きだした。
虚ろな目は弱まり、前のように明るく笑い、話すようにもなった。
子どものことも、「心からかわいい」とまで言うようになった。

私を含め、どれだけ周りも安堵したことだろう。

ただ、薬の影響か、躁状態が強くなっていた。
些細なことにすぐ怒りを爆発させるようになった。

それは私に対しても。
説明をしても一切聞こうともしない。
LINEやSNSは外され、訣別とばかりにすべてを遮断された。

その瞬間、私の中で何かが切れた。
もう知らない。もう関わりたくない。

彼女は良く私を頼ってきていた。頻繁に。
彼女といる時は、彼女の子どものお世話は当たり前のようにほぼ私の役目になっていた。
当時私の子どもも小さくて、幼い双子や年子の育児を1人でしてるようなものだった。
私は仕事もしていて、正直疲れていたが、病気になってしまった彼女を思い我慢していた。

そう思っていたからなのか、自分のキャパ以上のことをしていたからなのか、
その彼女の態度に対し、私の中でブチっと音を立てて何かが切れた。

しばらく後に、彼女からは「ごめんなさい」と連絡がきたが、許す気にはなれなかった。
それでも、彼女の旦那さんからも謝られ、渋々仲直りをした。表面上の。

私は、以前のようには彼女のことを大切に思えなくなっていた。
彼女は彼女。私は私。そう割り切るようになった。

彼女の調子はとても良さそうに見えた。治療は順調だと、誰もがそう思っていただろう。

なのに。

ある日また症状が戻っていた。

症状が治まってきたからと、自分の判断で勝手に薬を飲むのを止めてしまったそうだ。

急速に症状は悪化し、以前より深刻な状態になった。彼女は体を起こしていられなくなっていた。
慌てて病院へ行き、そのまま精神病院に緊急入院した。

彼女の退院は、症状の深刻さを脱した頃。
でも、表情は変わらずなかった。
彼女の子どもを見る目はやっぱり虚ろだった。

退院後、彼女はまた当たり前のように私を頼るようになった。

私はうんざりしていた。

尻ぬぐいはもうたくさんだ。

そんなことしか考えず、以前のようにサポートする気にはならなかった。

私以外にも頼るところはあるのだから、そこに行けば良いじゃない。
それに薬をちゃんと服用すれば、また前のように良くなるんでしょう?
周りに当たり散らせるくらいになるんでしょ?

今度は勝手に薬飲むの止めたりしないでよね。

数日後、
彼女は逝ってしまった。

とても勝手な人だった。
最期の時までそうだった。
自己中心的なその性格が嫌いだった。

でも。

私に悲しいことがあった時、嗚咽しながら泣いている時、何も言わずにそばにいてくれた。
「一人にしてよ!」と言っても、決して一人にはしてくれなかった。

それなのに。

私はその手を離した。

自分が壊れてでもしがみつけば良かったのだ。

こんなことになるのなら。

彼女には私が頼りだったのに、それを知っていながら私から拒絶した。

私が殺した。
私が殺した。
私が殺した。

あの時私が手を離したんだ!

ねぇ。


そっちでは、良く眠れるようになったの?

教えてよ。
なんであんなに急いでたの?

一人でさっさと逝っちゃってさ。

どう?最後まで自分の思うように生きた気分は。

私はさ、あの日からずっと海の底に沈んでるみたいだよ。

苦しいのにさ、上に上がれないの。

もう何年も経つのにさ。未だに思い出して涙が出るんだよ。

あんたが良くかわいがってくれたうちの子がさ、
「ボクがいるから泣かなくていいよ」なんて言うんだよ。

余計泣いちゃうよね。

あんたの子どもも元気だよ。

みんなに愛されてスクスク育ってるよ。
うちの子とよくケンカして遊んでる。

あんなにたくさん心配してたけど、うちの子より色々出来るようになってるんだよ。

あんなに心配しなくてもさ、良かったんだよ。

ねぇ。なんであんなに急いでいたの?
教えてよ。

ねぇ。

ごめんね。

助けてあげられなくて。
本当にごめんね。

私はまだ海の底にいるままだよ。

foot-pochipp

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